J-KING’s diary 裏J-KING

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テレビドラマ はだしのゲン 

はだしのゲンは、小学生のころ読破している漫画だ。
漫画なんか読んでは、いかん的な学校でも、認められていた
唯一の漫画だった。

家に全巻そろってもっている一人が、クラスへずっと貸していてくれたのだ。


そんな、有名な「はだしのゲン」が、はじめてドラマ化された。

意外だな、、子供の頃映画のはだしのゲンは見ている。

印象的だったのは、戦後の食糧難の時代に、兵隊だったおじさんが
野犬を捕まえて・・・。

こうでもしなきゃ生けていけないだろ!

ゲンが、鋭い視線をおじさんに向けていた。



小学生のゲンは、ちょうど私の父と同じ年代だ。

父には、一家の自慢であるとても成績優秀な兄とやさしい姉がいた。
大学へいくはずだった兄は軍需工場へ、姉もやがて同じ工場へ
行くことになった。

食べる物も、ろくにないときに、過酷な労働で二人とも
病気になって倒れてしまった。

満足な治療を受けることも出来ず、薬もなく、
二人はほど同時期に、自宅で寝たまま静かに死んでいった。

自慢の息子と長女を一度になくした祖父母は、
相当なショックを受けていたが、まだ小さな子供たち
がいるため、泣いているわけにもいかなかった。

父の上には、もう一人姉が、さらに妹は2人、終戦の年にもう一人妹ができた。




その父も、もう今はいない。

私はずっと、父が長男で、おばさんたちは皆妹だと思っていたが、
実際にはもっと兄弟がいた。

戦争中、亡くなった叔父、伯母のことを知ったのは、
つい最近のことだ。

父は生きているときに、一度も戦争のことや
亡くなった兄、姉のことは話すことはなかった。

父と車で出かけるときは、いつも軍歌のテープを流していた。

父ははやりの歌や、歌謡曲などまったく知らなかった。
唄える歌が、軍歌しかなくて育ったのだ。



祖母の兄は、海軍にいた。
軍艦に乗っていたが、戦死せずに帰ってきた。

その爺さんが家にやってくるときは、とても緊張していた。
とにかく厳しかった。怒鳴りつけられた。

海軍では、一度出撃すると、帰国するまでずっと海の上
兵器の管理から、料理、裁縫まで、なんでもこなす、それが海軍だ。

すごい爺さんだった。

私がまだ子供の頃は、そんな戦争へ行った爺さんたちが生きていた。
片手や、片足、片目の人なんかもいた。

鹿児島から(特攻隊)奇跡的に、戻って来れた人もいた。

もう、そんな厳しくて怖い爺さんたちはいなくなってしまった。




日系3世のアメリカ人が、原爆のドキュメンタリー映画を製作した。

はじまりは、渋谷での若者へのインタビューからだ。

1945年8月6日には、何があったか?

という質問に対して、ほとんどの若者は答えることができない。
アメリカ人も驚いた。


核兵器が人を殺す目的で使われたのは、たったの2回だけだ。

私たちが忘れてはけいけない、いや、全人類が忘れてはいけない日なのだ。



はだしのゲン(全10巻)(NDC726)



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